智ちゃん

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今思う智子さんのこと 5期 細田有二

 1962年(昭和37年)、私がグリークラブ一年生として楽譜のガリ切り(謄写版印刷のための原稿作り。ヤスリ板の上にろう原紙を置いて、鉄筆で五線を引き、音符、記号、歌詞を書き込むヤツ)のため度々出向いたのが、軽食・喫茶「兎月(とげつ)」だった。

 兎月、実に粋でオシャレな名前だ。先にも後にも同じ名前の店に出会ったことは無い。このロビンの前身兎月は、現在の百周年記念会館(当時は木造二階建ての短大校舎があった)の真向かいにあった。間口二間足らずだが奥が深く、一階店舗には四人掛けボックス席が八つほどあったと記憶している。十八歳~二十二歳位の女子店員が五~六名、奥の調理場にはこの店員をしきる形で四十年輩の着物姿のオバチャンがいた。クールで粋、不思議な色気をただよわせるオバチャンに対し、女店員たちは皆関東近在から出てきたと思われる、素朴でオープンな明るい娘たちばかりだった。その娘達の一人が智子さんだった。

 兎月はグリーの二期生役員がクラブの連絡先にと頼んで、常連客のように住みついてしまったところだ。オムレツライス、ウィンナーライスなどが定番メニューで、ウィンナーのツマミについてきたポテトサラダが美味しかったおぼえがある。二階は一階と同じ広さの板の間で、我々はよくここで遅くまでガリを切った。当時智子さんは二十歳、グリーの四年生よりは年下だったので、サトコ、サトコと呼ばれ、持ち前の勝気さと明晰さでグリーメンから可愛がられた。

 その後兎月はオーナーの事情もあり、雇い人も縮少し、駅に向かって左側にあった「丘」の隣に移った。そして「ロビン」と名を替え、最後の場所に移った。この間ずっと智子さんとオバチャン二人が切り盛りし続けた。このころになると智子さんは学生の姉御的存在となり、グリーに不可欠となっていた。

 彼女が亡くなったのは、1994年8月15日午後5時17分だ。たまたま彼女を見舞うため病院に行った根本行久君(25期)から電話が入り、智子さんが危篤ですと知らせてくれた。病院に駆けつけた時既に意識はなく、やがて皆の見守る中で苦しむこともなく息を引き取られた。見送ることの出来たOBは私一人だった。

 仙台での納骨の日、墓の近くの寺にロビンのオバチャン、智子さんの実の叔母さん、従兄弟、そして彼女が幼いころから面倒を見てきたという近所のオジさん等が集まった。集まった人達は、血のつながりも無いグリーのOB達が、納骨式にまで来たことを驚くと同時に、彼女が生前グリーのためにつくして来た話を聞かされ、智子さんに対する認識を新たにしたようだった。その席で私は初めて智子さんの出生、幼い頃の悲しい境遇を聞かされ、涙をこらえることができなかった。いつも明るく振る舞っていた彼女から想像も出来なかったことだけに、ことさら彼女が不憫でならなかった。

 智子さんは昭和16年白石市で生まれ育った。軍人のお父さんは戦死、気丈なお母さん一人で智子さん、智子さんのお兄さん、弟さんと三人の子を育てる。しかしやがてお母さんは無理がたたって病に倒れ、勉強の出来たお兄さんは進学を諦め、家族のために働きはじめる。そしてお母さんは亡くなり、お兄さんはやくざとなって出奔する。当時あったやくざ同士の大きな出入りの時、お兄さんは叔父さんの家に逃げ込んで来たが、翌朝には姿は消え、そのまま二度と現れることはなかった。智子さんは小学校を卒業するとお茶の水にもらわれるように出て行く。その時近所の子供達を集め智子さんのお別れ会を開いてくれたのが、納骨式の時来てくれた近所のオジさんだった。

 智子さんはお茶の水の区立中学へ通いそのオチャメ振りを発揮する。彼女の葬儀に来ていた中学の同級生達が一様に”チャメ子”彼女を呼んでいた。彼女の遺品の中から都立九段高校の合格通知書が出てきたが、彼女は高校へは行っていない。何故行かなかったのか、或いは行けなかったのか分からないが、大事にとってあったその証書は、彼女自身、自分を支える宝の一つとしていたのかも知れない。

 智子さんは他人に言えないことがいっぱいあったようだ。自分の境遇に対する愚痴など一言もこぼしたことはなかった。彼女は本当はどういう人だったのだろうか。彼女がグリーに深くかかわった重要な人だったという事も、もはや歴史になろうとしている。しかし改めて彼女のことを思うと、のほほんと過ごした学生時代に、別のものが重くのしかかっていたような気になってくる。


智ちゃん7回忌 (2000年8月6日)